2009年04月24日
サン・ミゲル・ダス・ミソオエス
São Miguel das Missões / Rio Grande do Sul
サン・ミゲル・ダス・ミソオエス遺跡群(「グアラニーのイエズス会伝道施設群」の一部、1983年 文化遺産に登録)
ブラジル最南端に位置するリオ・グランデ・ド・スル州。その州都ポルト・アレグレからおよそ500キロメートル北西に、サン・ミゲル・ダス・ミソオエス遺跡群はあります。イエズス会宣教師たちが建設した教化集落の跡地のひとつであるこの遺跡は、1983年に文化遺産に登録されました。翌1984年には、アルゼンチンにあるサン・イグナシオ・ミニ、サンタ・アナ、ヌゥエストラ・セニョーラ・デ・ロレート、サンタ・マリア・マジョールの4か所の教化集落遺跡が追加登録されています。これらの教化集落形成の起源は、16世紀末にさかのぼります。当時スペインの聖職者たちは、ブラジルの大農園などで酷使されていた先住民グアラニーの保護に積極的に乗り出しました。そして、イエズス会の宣教師たちは教化集落を建設し、キリスト教信仰のもと、彼らに規則正しい共同生活を営ませたのです。ここでは、グアラニーの文化や習慣などを利用しながら非強制的な布教が進められ、結果、西欧のキリスト教文化とグアラニーの文化が融合した、独自の文化が生み出されました。こういった教化集落は、現在のブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイの国境付近に30か所作られ、15万人ものグアラニーが生活していたと言われています。それぞれの集落は2人の神父(ほとんどがヨーロッパ人)と最高7,000人のグアラニーにより構成されていました。
ところでこの頃、ポルトガルやスペインに代わって海上進出を進めていたのはオランダであり、そのために新大陸への黒人奴隷の輸入が困難となっていました。インディオ狩りを目的のひとつとしていた武装集団バンデイラは、この情勢に着目し、教化集落を襲ってはグアラニーを捕獲するようになります。自給自足の生活が基本であった教化集落で生活するグアラニーは、農作業にも慣れ親しんでおり、奴隷として売りさばく際にも高値が付いたのです。また、教化集落を襲えば一度に大量のグアラニーを捕獲できる点も、バンデイラにとっては好都合でした。このようなバンデイラの攻撃に対し、イエズス会宣教師はグアラニーに武器を与え抵抗を挑みます。そして1641年のムボロレーの戦いで勝利をおさめると、その後はそれぞれの集落も繁栄をみせました。しかし1750年、教化集落からなるミシオネス地方が、スペインからポルトガルの手に渡ったことに対し、イエズス会宣教師とグアラニーは不満を抱き、抵抗を始めます。そしてグアラニー戦争が起こりますが、圧倒的な武力の差の前に、ポルトガルとスペインの連合軍に敗れたのです。これがきっかけとなり、1759年にイエズス会はポルトガル帝国から追放されてしまいます。グアラニーは、自治の術までは教えられていなかったため、その後、集落は荒れ、崩壊してしまいました。
ブラジルでは7つの教化集落が作られましたが、この中でもサン・ミゲル・ダス・ミソオエスの遺跡が世界遺産に指定されたのは、組織が最も大きく、また遺跡の保存状態が最も良かったためです。見どころとしては、毎夜「音と光のスペクタクル」というイベントが行われるサン・ミゲル教会が挙げられます。また、学校や工房、墓地、農家やインディオの住居跡なども現存しており、かつての集落の姿を今に伝えています。またミソオエス博物館を始め、数々の博物館では、当時の生活の様子に触れることができます。リンク
Embratur (ポルトガル語・英語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語)
New York Times (英語)
|
| 世界の車窓から?ブラジル鉄道の旅? |
| ■商品発売日 2004/08/25■品種 DVD■商品説明 |
| 4,725円 |
2009年04月23日
サン・ルイス歴史地区
São Luís / Maranhão
サン・ルイス歴史地区 (1997年 文化遺産登録)
今から約400年前の1612年、ダニエル・デ・ラ・トゥーシェ率いるフランス軍は、この地に要塞を作ります。ルイ4世、そして当時の国王であったルイ8世に敬意を表し、サン・ルイスと名付けられたこの要塞の誕生により、この街は産声を上げたのです。フランス軍はしかし、3年後の1615年、ジェロニモ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル軍との戦いに敗れ、サン・ルイスから撤退します。また、1641年から1644年までの3年間この地を支配下に置いたのはオランダでしたが、その後、再びポルトガルが実権を握ります。
支配国の変遷は、サン・ルイスの文化的な土壌に肥沃さを与えていきました。かつてから居住していた原住民、そして支配国であったフランス、オランダ、ポルトガル、また後に奴隷がもたらしたアフリカといったそれぞれの文化的要素が混交していったのです。
この街が誇る町並みの景観にも、その文化の形を見ることができます。世界遺産に指定された220ヘクタールに及ぶ歴史地区内には、3,500軒ものコロニアル様式の建物が立ち並んでいます。細工が施されたバルコニーつきの邸宅が数多く見受けられます。ポルトガルの陶磁器タイルであるアズレージョによる贅沢な装飾が特徴的であることから、「アズレージョの街」とも称されています。補修・修復により建物は保存され、1689年に建築された市役所は、現在でも利用されています。
美しい町並みは、この都市の経済が活況を呈していた往時を映し出すものでもあります。ポルトガルがオランダから実権を奪い返した頃のサン・ルイスは、サトウキビやカカオ、タバコの栽培と輸出によって、また1860年頃には、南北戦争で混乱するアメリカに代わりイギリスへ綿花を供給することで栄え、潤っていました。こうした貿易で得られた利益は、近代化を進めるための施設や、街に彩りを添える豪華な家々の建築のために利用されたのです。この頃サン・ルイスは、国内で3番目に人口の多い都市となるなど著しい発展を遂げていました。この成長は、この地の農業が衰退し、経済的豊かさに陰りが見え始めた19世紀末まで続きました。
サン・ルイスを代表する民衆文化といえば、ブンバ・メウ・ボイが挙げられます。6月になるとブラジル各地では、聖アントニオ、聖ヨハネ、聖ペドロの3聖人に捧げた、民衆的なフェスタ(フェスタ・ジュニーナ)が行われます。マラニャン州では、地域最大のフェスタでもあるブンバ・メウ・ボイがこれにあたります。ブンバ・メウ・ボイは、ポルトガルに起源を持ち、その後、様々な国の要素が取り入れられて作られた民衆劇。「雄牛の死と再生」が、色とりどりの衣装を着た人々により演じられます。現在では、国内有数の工業地帯も有する都市へと変貌したサン・ルイス。働きやすい都市の上位にもランクインしています。多くの詩人たちに「愛の島」と称賛されてきた芸術的な街の風景だけは、今も昔も変わりません。
リンク
Embratur (ポルトガル語・英語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語)
|
| adidas Originals アディダス ブラジルTT(トラックトップ) 705772【送料無料!】 |
| 10,000円 |
2009年04月22日
サルヴァドール
Salvador / Bahia
サルヴァドール・デ・バイーア歴史地区(1985年 文化遺産に登録)
ブラジル北東部に位置するバイーア州の州都、サルヴァドール。国内主要貿易港として発展したこの街は、1549年にブラジル最初の首都となり、以後200年以上もの長きにわたり国の中心地として輝きを放ちました。国内で最もアフリカ系住民の割合が高いこの街では、真っ青な海を背景にカラフルな家々が立ち並ぶ街の中を、白い民族衣装を身にまとったアフリカ系の女性たちが闊歩する姿をよく目にします。アフロ色が際立ちながらもヨーロッパや原住民の文化的要素も混ざったこの地の文化は、バイーア州そしてサルヴァドールの街の象徴ともなっており、ブラジル国内でも独自の地位を占めています。しかしこの独特の文化は、強制的にアフリカからこの地に連れてこられた人々の悲しみと適応の歴史を代弁するものでもあります。
サトウキビやたばこプランテーションが国の経済の基盤であった時代、その初期に農業労働に従事させられていたのは先住民たちでした。しかし生産量の増加とともにその担い手が不足してくると、アフリカから奴隷を「輸入」することで労働力不足を補い始めたのです。これこそが「奴隷貿易」であり、この悲しい歴史が始まった場所こそ、ここサルヴァドールでした。ブラジル最初の首都はいっぽうで、新世界最初の奴隷市場が開催された地でもあったのです。一般的に奴隷の導入が開始された時期は1538年とされていることが多いですが、最初の明確な資料としては、1549年の国王勅許があります。これによりブラジル北東部の砂糖農場への奴隷の輸入が許可され、翌1550年に奴隷の一団がサルヴァドールに到着しています。16世紀の後半から奴隷は大規模に導入されるようになり、1585年には5万7000人の総人口のうち、1万4000人が黒人奴隷であったと言われています。奴隷貿易が廃止された1850年までの間にブラジルに輸入された奴隷は、少なくとも300万人はいたとみられています(備考1)。しかし、悪名高い奴隷貿易についての歴史を抹消すべく、国がこれに関するすべての資料を貿易廃止後に処分してしまったため、正確な数字はわかっていません。
こういった歴史的背景が生み出した、ブラジルの中のアフリカ、サルヴァドール。世界遺産に指定されている歴史地区は、高低差が約73メートルもある上町(cidade alta)と下町(cidade baixa)から構成されています。特に上町は、ブラジル国内でもバロック建築がまとまって建っている最も大きな地域です。石畳の旧市街には、ペロウリーニョ広場、サン・フランシスコ教会をはじめとする多数の教会、リオブランコ宮殿、パステル調の色鮮やかなコロニアル建築物が残っています。下町は、港湾地区と商業地区となっています。またサルヴァドールで驚くのは、その教会の多さ。「1年の日数と同じ数だけの教会がある」という誇張した話も耳にするくらい、市内ではそこここで教会を目にすることができます。歴史のある有名な教会だけでも166もあります。
(備考1)金七紀男他著「ブラジル研究入門」2000参照
リンク
Embratur (ポルトガル語・英語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語)
|
| ブラジル国旗 |
| お部屋のインテリアやお店のディスプレイなど、使い方によって様々な雰囲気を作り出してくれる商品です。 |
| 840円 |
2009年04月19日
オリンダ
Olinda / Pernambuco
オリンダ歴史地区(1982年 文化遺産に登録)
ブラジルで最も古い州のひとつ、北東部のペルナンブコ州。ここに17~18世紀の面影を色濃く残す街、オリンダがあります。コロニアル様式の建造物の保存状態では、国内最高レベルを誇るこの都市は、1982年、世界文化遺産に登録されました。その面積の、実に3分の1が歴史地区として遺産に指定されているオリンダですが、ここに至った背景には、文化財保護に尽力してきたというこの都市の歴史があります。1930年代に主なモニュメントを指定文化財と定めてから、市内の文化的・歴史的建築物を保存するために、様々な活動が展開されてきました。こういった努力により、この街の文化遺産は継承されてきたのです。そんなオリンダの歴史は、1537年、後にこの地域随一の大地主となるポルトガル人、ドゥアルテ・コエーリョによって建設されたことに始まります。当時の北東部は、砂糖ブームに沸く、ブラジル経済の中心地でした。ペルナンブコ州の首府だったオリンダの人口も増えてゆき、それとともに修道会が伝道のために流入します。そして街には、聖堂や修道院が次々と建築されていったのです。しかし1630年、この地に攻め入ったオランダ人による破壊行為で、市内は壊滅状態となりました。そして、瓦礫のあとには、オランダ文化が反映された街がつくられます。ところが1649年、ポルトガルはオリンダを取り戻し、1654年から街の再建に取り組みます。オリンダにバロック風の建物が多いのは、この頃、つまり17~18世紀に建築された建物が今も残るためなのです。
数ある建造物の中でも目をひくのは、セーの丘に位置するセー大聖堂。これは、ノルデスチ最古の教区聖堂であり、かつオリンダで最も歴史のある聖堂でもあります。サン・フランシスコ修道院や、内部に聖母マリアの生涯やサン・フランシスコの生涯が描かれているサン・フランシスコ聖堂も見ものです。一方、この地に豊かさをもたらした砂糖産業を支えたのは、アフリカからの奴隷たちでしたが、そんな奴隷たちが定期的に売買されていた場所、リベラ広場もその姿を現在に残します。過ぎし日々の出来事を、私たちに語り続けるオリンダ。今日でもこの街の存在は、ブラジル国民にとり、ひとつの文化的なよりどころとなっています。ブラジルでは、2005年から国の「文化的首都」を選出するという試みが始められましたが「備考①」、その第1回目に選出されたのは、このオリンダでした。
ところでオリンダという名前については、コエーリョがこの地を見て「オー、リンダ(おぉ、美しい)!」と叫んだことに由来しているという話をよく耳にします。しかし本来の起源は、かのドン・キホーテの愛読書だったとされる「ゴールのアマディス」というスペインの騎士物語に登場する女性にあると言われています。とはいえ、バロック建築と素朴な家々のコントラストが織りなすこの街の美しさが、来る者に感動を与え、「オー、リンダ!」と叫ばせてしまうのもまた事実。その素晴らしさは時代を超え、人々に愛され続けているのです。備考①
ユネスコ、ブラジル文化省および観光省によりバックアップされた「ブラジル文化的首都機構」が始めたもの。文化的な遺産や多様性の評価や宣伝を通じ、国内の自治体の社会的・経済的発展を奨励することを目的としている。
リンク
Embratur (ポルトガル語・英語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語)
|
| トッパー PRO2000 送料無料! |
| さすがサッカー、フットサル王国ブラジル生まれのスニーカー! |
| 5,775円 |
2009年04月15日
オウロ・プレット
Ouro Preto / Minas Gerais
古都オウロ・プレト(1980年 文化遺産に登録)
ブラジル南東部のミナス・ジェライス州に位置し、その名が「黒い黄金」を意味する小都市オウロ・プレト。ブラジル初の世界遺産として登録されたのは、この古都の町並みでした。旧名をヴィラ・ヒッカ(富める村)と称したこの都市は、1720~1897年までミナス・ジェライスの州都でした。今日この都市が抱えるのは7万人弱の住民ですが、一時は、ラテンアメリカで最も多くの人口を有する一大都市でもありました。もともとは何もなかった高原を短期間で大変貌させたのは、17~18世紀にかけてこの地を中心に興ったゴールド・ラッシュでした。
それまでブラジルの経済は、砂糖産業により支えられていました。しかしそれが廃れ、またヨーロッパ中が貴金属不足に陥っていた17世紀末、貴金属の発見やインディオ狩りを目的とするバンデイラと呼ばれる武装集団の活動が活発になりました。この活動が進められる中、1693年に現ミナス・ジェライス州で初の金鉱が発見されてから、金が眠る場所があちこちで見つけられていったのです。1698年には後のオウロ・プレトでも金脈が発見され、採掘のための植民都市があちこちにつくられていきました。このゴールド・ラッシュは、19世紀のカリフォルニアのそれよりもはるかに大規模なもので、ブラジルを植民地として支配していたポルトガル政府が、1720年にブラジルへの渡航禁止令を公布せざるを得ないほどでした。この活況のなか、最も繁栄を遂げたのがオウロ・プレトだったのです。
ゴールド・ラッシュがもたらした富は、この都市にさまざまな建築物という遺産を残しました。鉱脈の衰退とともに、かつての静けさを取り戻し、学園都市に姿を変えたこの町ですが、現在でもかつての名残は、ほぼそのままにとどめられています。
オウロ・プレト出身で、「ブラジルのミケランジェロ」と称されるアレイジャヂーニョが設計した教会や彫刻は現在でも数多く残されています。中でも彼の代表作として知られるのが、サン・フランシスコ・ヂ・アシス教会です。市内では最も有名な教会であり、州を代表する見事なバロック建築とも言われています。また、彼の父マヌエル・フランシスコ・リズボアが設計したピラール教会は、内部の装飾に金・銀がそれぞれ400キログラムも使用され、その豪華さは、バイア州サルヴァドールにあるサン・フランシスコ教会に次ぎブラジルで2番目だとされています。約2万種を超える鉱物を有し、世界でも指折りの鉱物コレクションを誇る鉱物学博物館も、この都市を象徴する建物のひとつです。石畳の坂道とバロック様式の家々が織りなす美しい景観が、訪れる人々を魅了しています。リンク
Embratur (ポルトガル語・英語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語)
|
| 明解翻訳 ポルトガル語 2010 ダウンロード版 |
| 低価格でも充実の翻訳機能が満載!「ポルトガル語⇔日本語」双方向翻訳ソフト |
| 6,000円 |












